私と小鳥とジャニーズと

ツイスターゲームの如く沼を掛け持っています

剛くんが儚く消えてしまいそうに感じる今日この頃


せっかくまた書き始めたブログなので、暇があったらできるだけ更新したいと思い、今日は剛さんの話にしてみる。

私は2017年3月に剛さんの話をブログで書いた。

堂本剛が正直しんどい - 私と小鳥とジャニーズと

この話はありがたいことに私のブログの中では1番見ていただいているようで、私自身もたまに読み返している。
この時はまだその少しあとに起こることはなにも知らずに、呑気に愛を綴っていた。




この年の初夏(くらい)、剛さんは突発性難聴を発症した。急にテレビで剛さんの姿が見られなくなり、光一さんはKinKiで出る予定だった数々の番組を色んな方の手助けがありつつも1人で駆け回っていた。
日々、剛さんは大丈夫なんだろうか、普段の生活すらままならないのではないかという気持ちと一人で駆け回っている光一さんも疲れでやられてしまわないかと心配だった。でも特に自分に出来ることがない。祈るくらいしかできず、もどかしかった。
だが、神様に祈るのと同時になぜ色々なことを抱えながら、苦しみながらも沢山の人に愛をくれている人達がこんな思いをしなければならないのだろうと酷く恨んでもいた。



しばらくして、彼は仕事に復帰した。この件に関しては色んなファンの色んな見解があったが、とりあえずこの場では私の気持ちだけを書かせていただく。
テレビという機械を通して見た、退院して復帰した何日か前の撮影日の彼はひどくやつれているように見えた。動きだったり、言葉などはもちろんそのままだが疲れきっているようだった。
テレビを通して見た、とわざわざ言ったのは本人そのものを見ているわけではないからだ。そこにはカメラによる撮影、マイクによる録音、編集によって時系列は短縮されたり色味も変えられ、MAによって声のレベルだったりナレーションも追加され効果音もつけられている。そもそも本人も仕事であるためにテンションを上げめで挑んでいるかもしれない。
実際の当時の彼はもっと元気だったのかもしれないし、元気じゃなかったのかもしれない。
そんな中、残念ながら回復が見られず、と言いながらも今まで通り振る舞っている剛さんを見ているのはすごく辛かった。


また、私は以前のテレビ番組やライブの映像を見るのも辛かった。本人でもないのに、勝手に辛さを味わっていた。
そんな中剛さんはあの時からこの状態で何ができるかを考え、見つけ、行動していた。そんな姿を見て、私は自分が愚かだったなあと感じた。


だが私は剛さんがあれからどこか身を削って表現をしているような雰囲気を感じている。今までもドラマなどの演技でそのような感じ方をする事があったが、今は歌でも、演奏でもより感じるようになった。体から力を絞り出すような、大袈裟に言ってしまえば命を削っているような感じだ。
だから、見ながら聞きながら安らぎなどの感情と共に出どころがわからない寂しさ、儚さを感じるようになった。まるで、このままどこかに消え去ってしまいそうに。
もちろん私個人の受け取り方がこうなのであって、剛さん本人からしたら勝手に消えさすな!!!と思われてしまうだろう^^;
なのでこの意見は本当に流してもらうくらいで構わない。


儚さを感じる今ではあるが、逆にそこに惹かれる部分もある。透き通ったような、脆く壊れてしまいそうな儚さ(決して弱々しいなどの意味ではない)に、とても引き寄せられるものがある。



もしかしたら、これは剛さんがこの病気から得た、このマイナスの状況から剛さん自身が生み出した新しい1つの魅力なのかもしれない。